坂本の繁栄 中世の坂本   大津市史より


概   観
   室町幕府のもとでの大津は、坂本の存在によって、最も注目される土地となった.
        港湾としての坂本の重要性は、この地に新しい職業の人々を数多く居住させたのである。たと
        えば旅宿から発展した問丸、金融のための土倉、運送のための馬借などであるI室町時代
        も後期になるが、『実隆公記』には、長享三年(一四八九)に海津屋香取土佐守といういか
        めしい旅宿がみえるし、そのほか扇屋だの布屋だのという屋号の宿があった・彼らは旅宿
        だけでなく青苧(麻の粗皮)をはじめとする商品の仲買をし、問丸のような活動をした.彼
        らはその活動のための倉庫をもって蔵敷料なども徴したo坂本における納屋衆だったので
        ある。それらに並んで土倉と呼ばれる金融業者も多く集まったのである。そして彼らはい
        ずれも、延暦寺の権威を背景とし、山徒としての身分を併有していたー幕府が山門に心を
        つかい、坂本を気づかったのは、この頃になると坂本の経済力が大きな意味をもっていた
        からである。三代将軍足利義満と六代将軍義教の坂本への対応の仕方は、参詣と焼き打ち
        というようにきわめて対蹠であったが、ともに坂本を制御しようという意欲の異なった
        現われ方ともいえるであろうo義教はその点でのちの織田信長にも通ずるところがある゜
         坂本は大津とともに馬借一揆の根源地ともなった・応永三十三年(一四二六)の馬借一揆
        は、北野社の麹座が洛中の麹専売権を握ったところから、近江から輪送する米の価格の暴
        落を生じ、そのため起こったものだが、これ以後は京都におげる土一揆には、ほとんどそ
        の背景に馬借一揆を考慮せねばならぬほど、両者はきわめて密接なものとなっていた
        中世は一揆の時代といわれるが、近江の大津・坂本はまさにその導火線の役割を果たしたの
        であった・このような民衆の一揆の基盤には、その土地の商業的活動が考えられる。
         とくに大津の場合、湖上の生鮮魚介類を禁裏(朝廷)・神社に貢納する代償としてその魚
        介類の専売権を与えられていた供御人と呼ばれる人々の活動は、大津地域の商業を特徴づ
        けるものであったらそしてその人々が居住して漁撈生活を営む場所御厨は、まさしく土地
        なき庄園の形態を示していたのである・もっとも庄園という名がなかったのではなく、
        御厨に接続して庄園が発達したととはいうまでもない。
         商業の発展はまた宗教の展開と密接な関係をもっていた。真宗の堅田門徒がそれであ
        る・堅田といえば本福寺であり、蓮如の子蓮淳の活動が思われるが、その本寺としては蓮
        如創建の近松山顕証寺があった.この顕証寺は、園城寺の庇護のもとその境内に営まれた
        ことが、延暦寺に対する牽制に役立ったという・近江のみならず北陸にまで及ぶ大きな教
        団の動きがその背景にあり、やがてその門徒は守護六角氏と桔抗する勢力となっていた。
         この内乱の明け暮れに生み出された文化は、「はさら」として理解されるが、その文化
        もまた京都よりもむしろ近江において花開いたo京極道誉がその文化の体現者として目さ
        れているからである・近江は日吉猿楽の故郷であったが、その猿楽を最も愛好した足利義
        満は、応永十二年(一四〇五)、葛川参籠をこころみた.かつての聖域に俗世の王のきらび
        やかな行粧を迎えたのである。



   中世の坂本が、門前町でありかつ港町であり、さらには陸上交通の要衝でもあるという多様な 機能によって繁栄をみたことは、すでに著名なことである。その繁栄ぶりは、たびたび当時の記録類にも記されており、たとえば、その例として当時の富裕民の代名詞でもあった土倉・酒屋、あるいは宿泊施設の存在や市のにぎわいぷりなどが指摘できる。のちにもふれられるがヽ中世に坂本をみまった火災による類焼戸数が、二千とも数千ともいわれるのは、けっして誇大な表現ではないだろうし、また、戸数から類推するならば人口はそれに数倍する数字が予想されるのである。

 しかし、その坂本も厳密にみれば、延暦寺の支配下にあった曰吉社の東本宮への参道である八条通や山上の延暦寺へ通じる表参道の沿道を中心として栄えた山麓膝下の集落(坂本本町)と、三津とよばれ、比叡辻から唐崎の間の浜にあった戸津・今津・志津を中心に栄えた浜側の集落(下阪本一〜六丁目・唐崎一丁目)に、一応区別して考えておく必要かおる。もっとも、当時一円的に延暦寺領であったそれらの地域に対する呼称が各々区別されていたのか、また、延暦寺の両地域支配のあり方にどのような差異があったかについては不明で、両者はあわせて坂本とも東坂本とも呼ばれているが、考慮されねばならないのは、それら二つの地域がもった各々別個の機能についてである。



 塩津(伊香郡西浅井町)・勝野津(高島郡高島町)と大津の間を結ぶ北国物資の回漕ルートが古くから聞かれていたことは周知のとおりであり、そういった琵琶湖上水運の一つの要となったのがこの坂本であり、とくに浜側の各港であった。湖上水運は室町・戦国時代に盛んとなるが、

、「山所々見物シテ坂下(本)へ下ル。江州一国目前二見、青海船ノ往来、山々川々浦々名所無レ残見へ渡」とあるように、湖上を進む無数の船は多開院英俊の眼にも鮮やかに映じたのであろう。

 それらの船団は、残らず山門領である堅田・奥島(近江ハ幡市)とともに、この坂本に設けられた関でも
勘過料(湖上通行税)が徴収されていた。南北朝中期頃にみられる坂本関・導撫関・横川関などの、いわゆる坂本七ヵ関がそれで、関から徴収された勘過料は、延暦寺の財政運営に重要な役割を果たしていた。
 一方、坂本の沿岸には、当時の主要道であった西近江路(北国海道)が走っており、関と陸運の両面から当地は大きな意味をもっていたが、とくに東本宮参道との交差点である比叡辻・富崎(下阪本六丁目)付近には、陸上交通のにない手である馬借の集住がみられた]。
馬借とは、鎌倉末期から広範にあらわれる運送業者で、農民が農閑期に従事していたが、のちには勢力を伸ばし、土一揆・徳政一揆の中核として為政者を震撼させたのである。
以上、簡単に述べてきたように、坂本の浜側は、湖上・陸上を問わず、交通路を掌握、利用し、利益を生みだす機能をもっていたのである。

 さて、浜側の富崎・河崎・和田などには、曰吉社の社家が居住し、各々の集落の社では祖先の神霊を祀っ
ていたといわれている。その一つである磯成神社の縁起によれば、「中古以来該社家一同上阪本へ転居」と、山側の曰吉社門前に移住したことがわかる。それがいつの時代かは不明ながら、すでに中世には、曰吉社門前には社家の家が立ち並び、また、後段に 述べるような山門公人や山門使節、および各地の延暦寺領庄園から徴収された公事物を管理する納所など、いわば、延暦寺の寺務と庄園管理の中枢的機能が、この門前町に集中されていたのである。そこには、冒頭にも少しふれたように各地の参拝者や末寺から得度をうけるために集まった人々のための宿泊施設や信徒の詰所が立ち並んでいたのであろう。残念ながら、中世の坂本の景観を具体的に示す史料はみあたらないが、以上述べてきたことからも容易に想像できるように、当時の坂本は、水陸交通の要衝と門前町という多様な機能などからみて、近世にはいり全国各地に創出される都市のもつ機能を、早い時期からすでに有していたといっても過言ではないだろう。


 義満 の 南北朝合一後の応永元年(一三九四)九月、室町幕府三代将軍足利義満は、近江守護六角満高の 日吉社参先導により曰吉社に参詣した『足利治乱記』によれば義満の夢に白猿があらわれ曰吉社に誘い、さらにそののち、今度は管領斯波義将の夢に尊氏があらわれて、将軍の曰吉社参が延び延びと
なっているのはひとえに汝の罪であると語ったため、この曰吉社への社参がなされたという。

 しかし、曰吉社参の真のねらいは、当時南都興福寺と並んで強力な武力を行使していた山門延暦寺を幕府の威令下におとうとするところにあった。南北朝内乱の際にも、山門は南朝方として重要な役割をになってきており、北朝方の室町幕府にとっては目の上のこぶ的存在であった。
 これより先、義満は、至徳二年(一三八五)八月の南都遊覧を皮切りに、紀伊(和歌山県)・駿河(静岡県)・厳島・高野山・越前(福井県)と諸国に遊び、明徳二年(一三九一)にはふたたび、南都遊覧を行なっている。この諸国遊覧は、地方の守護大名や国人を威圧する目的でなされたものとみられるが、
応永元年の曰吉社参はこうした諸国遊覧の総仕上げともいうべき意味あいのものであった。義満の山門対策は、すでにこれ以前にもみられた。至徳二年に、義満は当時の祇園社社務執行顕深を義満の御師織(伊勢神宮参詣の案内役)に任ずるとともに敷地を寄進し、宝寺院という院号を与えて保護優遇している。これは、曰吉末社の祇園社を優遇することによって山門を懐柔しようとしたものであろう。

 これ以外にも義満は、山徒のなかから有力な者の一部を山門使節として組織し、彼らに山門および山門領内において守護に準ずる権限を与え、彼らを通じて山門への幕府権力の浸透をはかろうとしている。これ以前、山門は、事あるごとに幕府と対立しづづけており、政権の座に就いた義満にとって、山門対策は何よりも大きな課題の一つであった。義満はこの課題を、何はともあれ、山門使節制度の確立という形で一応は解決したわけであるが、これで幕府の山門政策が完璧なものとなったわけではなかった。というのは、山門

写61 磯成神社 曰吉社社外末社百八社の1つ。下阪本六丁目の富崎に鎮座。祭神は祝部西麿。富崎は,中世には馬借の集住地であった,が,社伝によれば,この地は古くから曰吉社家の居住地で,同社には社家の祖先の神霊が祀られる。上坂本へ社家が移住して後は,土地の氏神となった。なお,大宮川三角洲には御旅所が鎮座する。

使節は、形のうえでは幕府機構の下に組み込まれてはいても、その実、三千大衆と称された山徒を代表する幕府への「使節」としての性格はあくまで失っておらず、いわば幕府と山門の妥協の産物ともいうべき性格をもっていたからである。

幕府の出方によっては、山徒らが山門使節を先頭に幕府に歯向かう可能性は、その制度の発足当時から充分にあったといえる。両者はいまだ危機をはらみっつ、一時の融和状態にあったのである。

 このような幕府の山門対策の一環として行なわれたのが、応永元年(一三九四)の日吉社参であった。参拝の行事は、坂本在住の有力者であった坐禅院直全・円明坊兼慶・杉生坊逞春の三人が一山の使節(山門使節)として執り行なうこととし、費用は、坂本の土倉や、京都在住の有徳(富裕)の山徒に負担させている。
 社参の次第は、まず九月九日に青蓮院尊道法親王・梶井明承法親王・妙法院尭仁法親王を先発させ、義満自身は十一日朝四方輿に乗って坂本へ向かった。万里小路嗣房を惣奉行として、広橋仲光ら五人の公卿をはじめ、細川頼元・畠山基国らの有力守護、さらには義満の母紀良子や夫人藤原康子、嫡子義持らが、これに従った。翌十二日には、六社巡礼ののち童舞があり、義満みずから笙を吹いたと伝えられる。十三日に表白(法会の趣旨発表)・論議(経論の要義の問答・議論)が行なわれ、十四日に帰洛した回心四回。
 なお、元弘二年(一三三二)二月の兵火によって焼失した延暦寺の諸堂宇造替の工事を起こしていた義満は、帰洛後、山門諸坊らの進上物一切を大講堂造営料として奉加している。

 大講堂 この義満の発願による新造の檜皮葺九間の大講堂は、応永三年(一三九六)九月に落成した。 落成供養 七日ヽ義満はその大供養に臨むべくヽ右大臣三条実冬・内大臣万里小路嗣房以下の公卿を従えて京都を発ち、八瀬路を八瀬童子の卯輿に乗り、唐人傘をさして比叡に登山した。朝廷でもこの供養を御
会え(正月に朝廷で行なう法会)に準じ、関白一条心献・左大臣洞院公がらもこれに列した。このときの登山は、康治元年(一一四二)の鳥羽法皇や、安元二年(一一七六)の後白河法皇の例に準じたとされている
。香の法衣に青地牡丹唐草文の金欄の袈裟をかけて二十日の供養の法会に臨んだ義満は、翌二十一日には赤色の法衣に白地牡丹文の金欄の袈裟をかけてヽ戒壇院において受戒したo受戒の儀は安元二年の後白河ヽ文永六年(一二六九)の後嵯峨の両法皇受戒の儀を模したものと伝えられている。これらのこと
は、公家の権威、とりわけ天皇の権威をとりこむことによって、将軍専制権力を確立しようとしていた義満の志向を、如実に物語るものといえよう。

 それはともかく、この一代の盛儀は、祖父尊氏・父義詮らがその対策に苦慮した山門勢力が、義満の代になってようやく幕府の支配下に従えられることとなったことを象徴するものであった。事実その後、義満および四代将軍義持の代には、室町幕府と山門との間にさしたる問題は生じていない。それのみならず、応永
二十六年(一四一九)十一月には、義満の第三子青蓮院義円が第一五代の天台座主となっている。応永十五年、十五歳で出家し、同十八年に受戒した義円は、座主に就任したとき二六歳の若さであった。これがのち還俗して、五代将軍義量早世のためにふたたび政務をみていた義持亡きあとをうけて、六代将軍に就いた足利義教であった。


永享の山門騒乱
 根本中堂 自焼事件
永享七年(一四三五)二月五曰、根本中堂に閉龍していた延暦寺の衆徒がみずから堂舎に火を放ちヽ多くのものが切腹するという事件が起こった゜ この事件はヽその前曰にヽ将軍足利義教が金輪院弁澄・円明坊兼宗の子兼覚・月輪院(慶覚)の三名の山門使節を捕縛し、即刻、悲田院において首をはねてしまったことに抗議して行なわれたものであった。世に有名な元亀二年(一五七一)の信長の山門焼き打ち事件に先立つこと約一四〇年、この根本中堂自焼事件は当時の各方面の人々に深い衝撃を与えた。義持・義教と二代にわたる幕府政治顧問であった醍醐三宝院の満済は、「天下の凶事・重事、何事かこれに過ぐるべけんや。驚歎周章の外、他事なし、他事なし」と、また、後花園天皇の父伏見宮貞成は、「忽ちにして一時に山上滅亡すと云々。驚くべし、悲しむべし。末代の至極、御代に相当りて山門の滅亡、驚歎極まりなし」と、それぞれの曰記に記している。さらに、洛中には幕府の手で間口令がしかれ、この事件を口外したある者は、逮捕されて首をはねられたといい、このことを伝え聞いた伏見宮貞成は、将軍義教のあまりにも峻厳な政治に、「万人恐怖、言ふなかれ、言ふなかれ」と恐れおののいたのでったo

  山門と幕府 
この前代未聞の山門衆徒による根本中堂自焼事件は、もちろんけっして唐突に始まったものでの確執 はなかった゜騒乱のきっかけはヽ二年前にさかのぼる・ 永享五年(一四三三)七月十九曰、山門使節をりーダーとした山門大衆が根本中堂に閉寵し、衆議の決定一ニカ条をもって山徒の光聚院猷秀、幕府要人の赤松満政・飯尾為種らの不正を幕府に訴えたのおもな要求は、次のとおりである。

 出光聚院猷秀は宝憧院造営奉行でありながら、工事を怠って費用を横領し、また、西塔関の収入によって  行なうべき西塔釈迦堂修理もせずにその利益を私し、さらに、法外な利子で金貸しを行なって、山僧の 所領を押領している。
幕府は、延暦寺衆徒らからいわれなく没収した所領を、他の山門衆徒に宛行なわないで、勝手に公家・武家に与えている。
山門奉行飯尾為種をはじめとする幕府奉行人や、将軍近習の赤松満政らが賂賄によって、猷秀らを類無するなど奸曲を行なっている。

なかでも、山門側からやり玉にあげられたのが光聚院猷秀であった。

 訴状によれば、猷秀は、かつて不都合なことがあって山門から放逐された山徒であったという。それが、永享三年(一四三一)九月に帰山を果たし、同十月には山門西塔二季講領江州普光寺奉行職に再任、さらに翌四年七月には「坂本西塔関」の関務をふたたび執るようになっている。いずれも、幕府の命によるものであった。いったん山門一山の衆議をもって追放した人間が、幕府のごり押しで元の役職に帰り咲いたのである。
 猷秀はまた、金融活動も活発に行なっていたようで坂本の宝福寺・坐禅院などの山徒に金を貸しており、
この金融活動をも幕府は援助していた。永享三年十一月、幕府はこの支払い命令を出しており、翌四年六月には近江守護六角氏に命じて猷秀のもつ担保の保証をさせている このような猷秀に対する幕府の優遇措置の裏には、猷秀と飯尾為種・赤松満政らとのゆ着があったのであろう。それはともかく、山門の意志を無視した猷秀に対する過分な優遇が、一山大衆と幕府との回にまさつを起こさせないはずはなかった。ここに訴訟事件の一因が求められよう。

 永享五年間七月ヽ猷秀・為種は配流 満政は宗家預りとの沙汰が出され翌月には山門も幕府の決定をのんでヽ訴訟はひとまず落着をみた しかしその数日後、勝訴の勢いにのった山門が、先の強訴に同調しなかった園城寺を焼き打ちしたことから 山門と幕府の間はふたたび緊迫することになった。同年十一月ヽ先の山門訴訟では有力守護たちに対山門慎重論が強かったため猷秀らを処分して山門に譲歩した将軍義教も、このたびは醍醐三宝院満済や管領細川持之らがいさめるのも聞かずヽ延暦寺への軍勢発向を決意した。二十七日には、但馬(兵庫県)守護山名・美濃(岐阜県)守護土岐らの軍勢が園城寺より北上し、一方、越前(福井県)守護斯波の軍勢が南下してヽ比叡山を狭撃する体制をとった『満・こうした幕府の強硬な姿勢に驚いた山門側は、これまでの一連の騒動の張本と幕府からみられていた山門使節の一人円明坊兼宗を隠居させることで、降伏を願い出、戦闘はわずか半月余で終わった  一応騒乱は収まったものの、山門と幕府の間はなおしっくりいかないまま、年を越すことになった。

永享六年(一四三四)七月、山門が鎌倉にある関東公方の足利持氏と通謀しているといううわさが流れた。
関東公方家は、将軍家一族でありながら初代旅心以来、幕府と対立しその体制を脅かしていた勢力である。
この風聞が、将軍義教の山門に対する態度を決定的なものとしたようだ。
実際、同じ月に、山門側も、洛中より比叡山頂に至る最短距離の雲母坂に堀を設け、釘抜(釘を打ち通した木で作った柵でヽ盗賊防御や軍事の施設)を構築するなどして幕府に対抗する準備を進めていた
 幕府はこの情報を得るや、すぐさま山門への軍勢派遣を決定する。このたびの戦闘は、前年とは異なり、徹底的に行なわれた。同年八月、幕府は、山門の兵粮攻めをはかるため、守護大名の六角氏と京極氏を近江国に下向させヽ陸路・湖上とも封鎖することを命じた。ここにヽ大がかりな山門包囲網がしかれることになったのである。
 このような持久戦に、軍勢においても質量ともに劣る山門側は、しだいに追いつめられていった。ついにヽ十一月二十五日には、山名・土岐らの軍勢が坂本に進攻して、焼き打ちした。坂本中の在家(民家)などはすべて焼き払われ、女たちが禁制の山上へ逃げ上るほどの混乱におちいり、同地は「坂本中滅亡」という結果となった それでも、最後には山徒らが根本中堂を焼かないことを条件に、幕府側の有力守護だちから和解案が出され氷享の山門騒乱も無事に終わったかにみえたっしかしヽ山門使節を憎悪する将軍義教はヽ翌七年二月、罪を許して再任するといつわって山門使節金輪院弁澄・月輪院(慶覚)らを下山させ、これを管領に召し捕らせて京都の悲田院ですぐさま処刑してしまった。ちなみに、山門使節の幕府の動きを事前に察知していたのかすでに前年暮れに自害しておりヽ騒乱の張本といわれた円明坊兼宗は追手を免れて逃亡したものの、氷享十一年逃亡先の吉野で謀殺されている ここに、永享の山門騒乱を指導してきた山門使節たちは滅亡した。弁澄以下の山門使節三名が首をはねられたとの報をうけた、北野社参箇中の将軍義教は、満面に笑みを浮かべたと伝えられる。思えば、円明坊・月輪院・金輪院・杉生坊と山門使節の大半が、かつて義教が門跡としてあった青蓮院の門徒であった」。そのかつての子飼いの山徒がヽ将軍職に就いたときヽ彼に敵対するものとしてたち現われてきたのであった。義教の胸には、複雑な思いが去来していたであろう。
 かくして永享七年二月五目、延暦寺根本中堂は惣持院などの堂舎とともに炎上した。前日の山門使節処刑に抗議した、山徒たちの最後の行動であった。ここに永享の山門騒乱は終わりを告げ、これまで南都興福寺と並んで勢力をふるってきた山門延暦寺も、ついに室町幕府の武力の前に屈伏を余儀なくされたのである。

 騒乱後の 永享の山門騒乱の終結後、幕府は新たな有力山徒をふたたび選び出し、彼らを山門使節に任命 山門と幕府 した・騒乱後の山門使節としてはヽ護正院゛杉生坊゜西勝坊・行泉坊といった山徒の名が確認できる。このなかで杉生坊だけは騒乱前にも山門使節をつとめているが、この杉生坊は騒乱中いちはやく幕府に降服しており、その功により騒乱後も引き続き山門使節の地位に留まることを許されたものであろう。
 騒乱後の山門使節のなかでは、護正院が最も勢力をもっていたようで、騒乱によって焼失した根本中堂の再建には、この護正院が造営奉行に任ぜられている。将軍足利義教は、騒乱後八ヵ月余りたった永享七年(一四三五)十月、護正院兼全なる者に「山門根本中堂造営料所」として音羽庄(高島郡高島町)を宛行なっているのである「。根本中堂再建のための主な費用は、この護正院の管領する音羽庄からの収入によってまかなわれることとなったのであろう。こののち根本中堂の立柱は、永享八年十月に行なわれているしかし三年後の永享十一年になっても播磨国(兵庫県)に「根本中堂造営料」として棟別銭が賦課されておりヽその完成にはかなりの歳月を要したらしいことがわかる。
 この新造の根本中堂が正確にいつ竣工したかは定かではないが、遅くとも嘉吉三年(一四四三)以前には完成していたようである。というのは、この年の九月、根本中堂を舞台として衆人を驚愕させる一大事件がも
ちあがっているからである。
 その事件とは、旧南朝方の群党の内裏侵入・放火と、それに続く延暦寺根本中堂への閉籠をいう。旧南朝
の皇族尊秀親王を首領とする群党が、内裏に侵入・放火したうえ、神璽・宝剣を奪って根本中堂に籠ったの
は、同年九月二十三日のことであった。彼らは根本中堂より各所に反幕府の挙兵をすすめる檄をとばし、


に天下大乱」とまでいわれるほどの動揺が内外に起こっている。しかしヽあわや南北朝内乱の再来
かという事態にまでたちいたるかにみえたとき、事件は急転直下、一挙に解決する。そしてその解決に大きな役割を果たしたのが、ほかならぬ山門使節の護正院兼全てあった。


 根本中堂再建の奉行をつとめた護正院兼全は、今度はこの根本中堂に寵った「凶徒」らを、みずから軍勢を率いて見事放逐してしまったのであった。京都の幕府が喜んだことはいうまでもない。

 この嘉吉三年(一四四三)の旧南朝方の根本中堂閉籠事件は、山門の騒乱後の新たな山門使節が、幕府の忠実な配下として、組織されていたことを如実に物語っている。永享の山門騒乱でいったんは破綻にひんした山門使節制度を、幕府はふたたびこの時点において復活し、より強固な統制下においていたということができる。

写64 護正院への感状 嘉吉3年(1443) 9月,根本中堂
に籠った旧南朝方の群党を討ち破ったことを賞した室町
幕府の感状。合戦は根本中堂の西の戒壇院を主戦場とし
て行なわれたようで,感状にはその旨が記されている。
また護正院側も「被官人数多」が疵ついたこともみえて
おり,激しい合戦の模様がうかがえる。


土倉と問丸
坂本の繁栄
応永元年(一三九四)の足利義満の日吉社参詣にあたり、坂本ではその準備費用捻出のため「坂本中土倉」に税を課した。このとき、坂本中には「本倉卅箇所」・「新倉九箇所」かあり、前者には各五〇貫文が、後者には各三〇貫文の税が課せられたという。「本倉」と「新倉」の区別の基準は定かでないが、古くからの土倉と、新造の土倉とを区別したものであろう。
 この頃、三九軒もの土倉が営業するほどの繁栄ぶりをみせていた坂本には、すでに早く鎌倉時代の初めから数千を数える人家が立て込んでいた。建暦元年こ二Iこ十一月、日吉八王子社火災の際、坂本の在家二千余が焼失しておりまた後代でも文亀元年(一五〇一)四月に、火災によって数千軒の在家が焼失している中世を通じてヽかなりの数にのぼる住人がとの地で生活していたことがわかる。

写65 土倉「どくら」ともいう。土塗りの倉庫をいい,
のち転じて金融業者を指すようになった。中世の木造家
屋が立ち並ぶなかにあって,土塗りの倉庫はみるからに
異様であり,土倉をもって金融業者を代表させることに
なったのであろう。写真は,『春日権現絵巻』に描かれ
た土倉。


 こうした土倉を中心とした山僧や日吉神人たちの金融活動については、早く鎌倉時代の初め頃に、
藤原定家が「近来妻子を帯び、出挙(金融活動)して富裕なるもの、悪事を張行し、山門に充満す」とその日記『明月記』に記しているさらに寛喜三年(一二三一)にはヽ幕府はヽ山僧・神人らが債務があると称しヽ
むやみに道路で年貢等を差し押さえることを禁じ、ついで延応元年二二三九)にもヽ山僧を庄園の預所や地頭の代官に補すことを禁じているリ。鎌倉時代における山僧・神人の活発な金融活動の有様がうかがえよう。
 

 このように山僧の金融活動をはじめとする商業活動は、山門膝下の坂本にとどまらず、畿内一円に及んでいたのである。しかし、なかでもその活動が最も盛んであったのは、なんといっても当時わが国最大の都市であった京都であった。
 山門気風 鎌倉末期の正和年間(一三一二〜一七)、日吉神輿造替のための役銭が京都の土倉に課されたがの土倉 このときヽ検非違使庁がその徴収を担当した「庁沙汰」の土倉五五軒に対しヽ「神人沙汰」の土倉は二八〇軒を数えたという。この「神人沙汰」は日吉神人の沙汰と解され、「山門気風の土倉」と呼ばれた山門を本所とする土倉は京都の土倉の八割以上を占めていたのである・
 正平七年(一三五二)四月、山徒賢聖坊承賢なる者の子承任が、当時幕府の侍所頭人(侍所の長官)であった京極秀綱と縁続きの百済寺(愛知郡愛東町)の稚児およびその後見の山門衆徒を殺害するという事件があったとき、幕府は京都の八条坊門猪熊にあった賢聖坊の土倉を検封し、山門の衆徒らは坂本にあった彼の坊舎を破却している。このとき衆徒はさらに祇園社の犬神人を動員して、その京都の住坊をも破却せんとしたといい

 これより以前、鎌倉時代には、彼ら土倉は「土倉寄合衆」と呼ばれるような山徒を中心とする寄合組織をつくりヽそこで資金を出しあって、金融を営んでいたが、南北朝・室町時代になると、前述の賢聖坊にみられるように、一人で土倉を経営するものが多くなってくる。彼らの多くは、賢聖坊と同じく、坂本・京都にまたがって坊舎・土倉をもつことが多く、このたくらあずかり 

室町時代になると、土倉経営のために、倉預・土倉沙汰人と呼ばれる一種の使用人を雇い、これをもって
土倉経営にあてるまでになっている。倉預・土倉沙汰人に対し、本来の土倉の所有者は、土倉本主または本
所と呼ばれたが、彼らのなかから、やがて幕府の金品出納の管理にあたる公方御倉をつとめ、
また幕府の下で土倉役を集納する納銭方をつとめる土倉も輩出している。
 山徒らは政治的には山門使節を通じて室町幕府の統轄をうける一方で、経済的にはこの納銭方を通じ
て強い幕府の統制をうけることとなっていたのである。


さて、こうした金融活動を行なった山僧のなかにおいて、今日その活躍が知られる者の一人に
静住坊憲舜がいる。憲舜は文明(一四六九〜八七)頃横川掴厳院の雑掌をつとめ、御廟(慈恵)大師
の供料所であった東坂本の「川端屋地」を領有し、また、比叡辻にも屋敷をもって、土倉を経営した有徳者
で、幕府の政所代をつとめていた蜷川氏の被官として、幕府とも深く結びついていた山徒であった。
 この憲舜は京都の浄土寺門跡にかなりの金銭を貸し付けていたようで、文明五年(一四七三)には、それま
での返却金の滞納分七一六貫余の見返りとして、同門跡領であった紀伊国田中庄(和歌山県那賀郡)の領知を幕府に願い出ており、文明九年にも浄土寺門跡領の「西院内下地宇治岡屋」を借物返済のかたとして知行する
ことを幕府に願い出ているに。さらに憲舜は、文明十一年にはこれまでの借物の本利三〇〇余貫文とし
て、これまで担保として差し押さえていた岡屋三石・西院二五石・梅辻地子二貫文・和田五石以外にさらに
戸津地子八○貫文をもって充当することを幕府に願い出ている『同前』。この戸津地方を担保とし、浄土寺門跡
はあちこちの土倉から金を借りていたらしく、文明五年九月には、山徒の郷註記永舜なる者も、四〇〇貫文
の借金のかたとして、門跡領坂本今津庄(戸津)代官職の領知を幕府に願い出、さらに十一月になると、静住
坊の同代官職への妨げを幕府に訴え出ている『同前』。この郷註記永舜と静住坊憲舜の戸津代官職をめぐる紛争
、静住坊憲舜がそれまで有していたところの「東坂本比叡辻馬借年預職」を、文明七年永舜に売却することによってかたがつけられたらしい『同前』。
 憲舜は文明十三年に浄土寺門跡より獲得した「坂本比叡辻の内、和田の地二所」を横川の霊山院に寄付し
ている。憲舜は、これ以外にも文明十二年には浄土寺門跡領「江州栗太郡散在分蔵垣庄」の年貢の一
部を借金のかたに獲得している『同前』。またこのほか、文明六年十月には「楊院椛尾栄寿院坊領」および
「末坊之房張山林等」を辻本坊全舜より買得しており、文明八年四月には「大御乳人御局御里」の屋敷二
棟を買得している『同前』。
 文明十五年三月には、その上分米(年貢米)が「日吉六社灯明料・山上二季講料」であった江州蒲生郡七里
村(蒲生郡竜王町)地頭職を長岡筑前守貞信なるものに売却している。

 憲舜の経済活動が、こうした金融活動にとどまるものだけでなかったことは、前述した馬借の年預職を彼が所持していたことからも明らかであるが、彼の縁につながると思われる静住房岩千代丸が、文明六年(一四七四)十月、楞厳院慈恵大師の廟の燈明料として永代買得した今堅田の「上乗職六頭」を幕府より安堵
されている「同前」。上乗職は「番屋と号す」とされているように、湖上を往還する船に乗り込み、その水先案
内をする上乗連中の統率をしたもので、「六頭」とあるところから、六者による分割支配がなされていたと考
えられる。いずれにせよ、前の馬借年預職といい、この上乗職六頭といい、広範囲にわたる山徒の営利活動を物語るものである。
 坂本を中心とする商業交通の実権をもっていた問丸(問屋)も、またこのような山徒の支配をうけていた。
たとえば文明頃憲憲舜は坂本の問丸香取(鴨取)左衛門太郎なるものの給主となっていたようで、文明五年十
月、山門西塔院北谷雑掌は、当時の中心衣料であった麻の原料である青苧の代金を支払わなかったことで、
問丸香取とともに給憲憲舜を幕府に訴えている『同前』。なおとこでいう給主とは、坂本中の問丸を管理・領有する権限をもつ者をいうのであろう。
  

     問丸鴨取左衛門太郎
     給主静憲房憲舜
 これまでみてきたように山徒静憲坊憲舜の営利活動は、土倉を営むことによる金融活動から、さらに馬借
や上乗といった交通運輸業者に対する統制、さらには問丸のような商人統制にも及んでおり、この時期、鎌
倉末から室町期にかけて、山門を後盾とする山徒・神人が、いかに商品流通と非常に深いつながりをもって
その営利活動を行なっていたかがうかがわれるのである。
      前述の文明五年に山門西塔院北谷雑掌より訴えられた問丸香取左衛門太郎は、この前後三条西
 問丸香取 家と天王寺苧座衆との争いの調停にあたっている、苧商売を生業としていた海津屋香取源三な
る者と同一人または、親族関係にあったと考えられる蒜。南北朝期以来、青苧課役は正親町三条家よりそ
の権利を譲り受けた三条西家の支配に帰していたが、三条西家の支配下におかれた苧座としては、京中苧
座・天王寺苧座・坂本苧座・越後苧座があった。坂本の問丸香取は「苧座中香取」とも記され、苧商売の坂
本における中継問屋として、苧を近江・京都に売りさばいていたらしい。また、「海津屋香取」ともみえる
ところから、若狭敦賀から送られてきた物資の琵琶湖での連絡に海津の港とも何らかのかかわりを有した人
物であったと考えられる。この香取は、文明十九年(一四八七)頃から明応(一四九二〜一五〇一)の頃まで、青苧座の本所である三条西家に対して、しばしば金を融通している。

 また、永正十六年(一五一九)頃、小浜の商人三郎右衛門が引き受けていた禁裏御料所越前河合庄(福井市)の年貢送進も、もともとは大津の問丸香取が引き受けていたものであったと伝えている回一に。さらに天文十二年(一五四三)頃、この香取は美濃・飛騨(以上岐阜県)より坂本に着津する材木の問丸職を、清水道徴なるものから買得し材木宿まで経営するようになったo
 この清水については、寛正(一四六〇〜六六)・文明(一四六九〜八七)頃、清水次郎左衛門尉親子なるものが、三条西家の設置した坂本苧関で苧公事代官として、その徴収にあたっており、その一族と考えられるリ能J。
またヽ坂本の材木宿が香取に売り渡された後の天文十七年(一五四八)には、清水治秀なるものが、美濃・飛騨の材木の「洛中洛外の宿開職」の保証を幕府に要求しているがfこれもやはり同じ一族であるoこの清水の本拠がどこにあったかは定かでないが、比叡辻の北には、清水崎と呼ばれる高橋川の三角洲が湖に突き
出ておりヽあるいはこの清水崎(木の岡町)辺りを本拠としていたのかもしれない。いずれにせよ苧の問丸香取は、材木宿をも兼業する問丸でもあった。
 以上、述べてきたような山徒や神人の金融活動、さらには坂本に集積してくる物資を扱う問丸などで、坂本はにぎわったのである。室町時代の公家、甘露寺親長の日記に「中御門旅店」の名がみえるように、
旅宿の設備も整えられ、また狂言「磁石」では都見物にきた遠江国(静岡県)の者が、坂本の市で小間物店に入り、櫛・針・節・白粉を買ったとみえるように、数多くの市が立ち並んだ繁栄の様がこれらの史料・記録によってしのばれるのである。


江方材木」の集積地に利用されていた(第一巻第四章第二節参照)。のち坂本の馬借と称される人々は、この三津のうちの戸津に程近い富崎・比叡辻に集住していたらしく、応永元年(一三九四)の『日吉社室町殿御社参記』には「富崎・比叡辻馬借・車借」とみえているし、比叡辻は日吉大社東本宮への参道と西近江路の交
わる地であっただけではなく、室町期にはやはり船着場としても機能していたから、馬借や車借が集住する地として、格好のものであったのだろう。
近江における馬借の集住地としてはこのほか今路(道)の馬借が知られる゜今路は山中越とも呼ばれ、京都と坂本とを結ぶ重要な街道であり、北国から琵琶湖を経て京都に運送される物資の多くは、この街道を利用して運ばれ、その意味では坂本と京都を結ぶ大動脈であった。今路の馬借は、この街道のどの辺りに居住していたのかは明らかではないが、たぶん現在の山中町一帯と推定してほぼ誤りはなかろう。そしてまた坂本の対岸にあたる湖東の山田・矢橋・下笠(以上草津市)にもヽ馬借が集住していたが 東国および北国からの京都への玄関口ともいうべきこれらの地域にはこうした運輸業者が集住していたことが以上によって知れるが、これは大津近辺が庄園領主の都市である京都の外港的役割を果たし、そのことによって中世大津の繁栄が保障されていたといっても、けっして過言ではあるまい。
 ところで『新猿楽記』は、馬借・車借の風体および勤勉さについて、次のように記している。
牛の頭は爛ると雖ども、一日として休むこと無し。馬の背は穿つと雖ども、片時も怠たらず
。常に駄賃の多少を論じ、鎮に車力の不足を諍う。等閑して腰を屈めず、蔑如にして紐を斂めず。足は藁履を脱ぐの時無く、手は下との鞭を捨つるの日無し。
 踵の皹は山城茄子の霜を相うるが如く、はぎの皹は大和瓜の日に向うが如し、只、牛馬の血肉を以て、将に妻子の身命を脇とするのみここには「妻子の身命を脇」として、「駄賃の多少を論じ」「車力の不足を諍う」運輸業者としての馬借や車借の姿があますところなく描かれている。もちろんこの表現にはいささか誇張がともなっていようが、それにしても彼らの活力に満ちた姿が彷彿と浮かび上がってくるようである。

 彼らは普通、隊商を組織して街道を往来していたようで、文永七年(一二七〇)の『勧学講条々』には「馬は十三疋を以て一類となす。」とみえている。ちなみに同文書によれば、彼らは報酬として越前敦賀から近江海津までの運搬の場合、米一石につき二斗を支給されている。


 『日吉社室町殿御社参記』によれば、比叡辻の馬借・車借は、日に馬二〇〇疋・車二〇両を動員できる能力をもっていたというが、しかし彼ら馬借たちは、個々人でもって馬・車を所有していたのではなく、彼らを統率する特定の人物から、そうした資財を借りうけていたようである。また彼らは運輸業にのみ専従していたのではなく、一面、農民的性格をももっていた。他国の例となるが敦賀の馬借の場合、農民が農閑期に馬借となる例さえみられるし、さらには室町時代の後半、馬借の集住地であった大和の布留郷や南山城の木津などで、土一揆が勃発すると一庄ことごとくが逃散し、もぬけの殻となったという。これらの例は、いずれも農民と馬借との不可分の関係を示すものであろう。その意味で馬借・車借は、たんに運輸専従者という
一面のみではとらえきれない側面をもっていたということができる。
      こうした馬借・車借が、なかでも馬借が、世人の耳目を一躍そばだたせるようになるのは、
 馬借蜂起
   町時代に入ってからのことであった。それは馬借が、この時代に至り史料上にしばしば「馬借蜂起」と記されるように、様々な理由をもって武力的な闘いをくり広げるようになってからである。なかでも、大津・坂本の馬借は、ことあるごとに蜂起し衆人の注目を集めることとなる。表一六は大津・坂本馬
借の蜂起を年譜化したものであるが、以下これによって話を進めていくことにしよう。
 坂本の馬借が最初に蜂起したのは、康暦元年(一三七九)六月のことである。『祗園社記』巻六には、
  夜中十四日、坂本より馬借惣党人等千余人当社に打ち入り濫妨す。訴訟の題目は、日野殿・円明坊開
  (関)所々の事。
と述べられており、蜂起の理由は関所のことであったと思われる。ここにみる円明坊とは、当時山門を代表
して室町幕府から守護に準ずる権限を与えられていた山門使節の一人で、かつこのとき、祗園社の目代(雑務
役人)もつとめていた人物である。円明坊については経緯は明らかでないが、この前後坂本近辺に関所を設置



第三章 一揆の世界 306
    第二節 馬借と一揆





    坂本・大津の馬借


      平安時代の末頃より交通の要衝地に出現した馬借・車借と呼ばれる人たちは、交通・運輸に携
 馬借の様相  わる者として、徐々にその活動基盤を広げていたが、とくに鎌倉時代末期以降、商品流通の拡大とともに、彼らの力はもはや無視しがたくなっていった。
 琵琶湖を媒介として、北国から様々な物資が集散する大津には、早くから彼らの存在がみられたらしく、一一世紀の初めに成立した藤原明衡著『新猿楽記』には、「馬借・車借の妻たらんと願う。

 これはこのときの馬借蜂起が山門支配下にある坂本馬借と、山門の権限を代表する山門使節との、いわば山門の内輪もめともいえる事件であったために、京都の住民らは、直接身の危険を感じることがなかったためと思われる。
 同様のことは、文安元年(一四四四)十月の例についてもいえる。この事件は馬借数百人が京都妙法院の脇門跡日厳院などに発向したものであり、その理由は「妙法院門主改易せらるべきの由、嗷(強)訴出す」もので
あった日日厳院に対する発向理由は詳らかではないがヽ『康富記』に「日厳院と帆影辺ヽ不快の故
の者獣」と述べられていることからすると、妙法院門主の改易にあたって、日厳院と当時の幕府の管領畠山
持国が、なんらかの形でかかわっていたのであろうか。この事件とて、馬借には直接の利害関係はなく、む
しろ山門内部の争いに馬借がそのもつ力を利用されていたのである。

 坂本を主体とする馬借蜂起を詳細にみていくと、次項以後に詳しくみるように、康正二年(一四五六)を境
として、その以前と以後とで蜂起の目的が著しく異なることに気づく。
 つまりこれ以前においては、馬借が山門と一体となって、いやむしろ山門の先兵となって蜂起する例が多
かったにもかかわらず、これ以後になるとそうした例をほとんどみることができなくなるのみならず、逆に
山門と対決するために蜂起する例が多くなってくるのである。これはとりもなおさず、応仁の乱を境とし
て、山門による馬借支配の低下を物語るものであろう。
応永三十三年(一四二六)四月二十日、坂本の馬借が日吉祭礼にやってきた上卿(祭を司る担当公卿)や内侍(宮中の女官)の車に狼籍を働き、公人(山門の使役僧)を刃傷するという事件が起こった幕府の意をうけた山門使節はヽこの事件に対する報復としてヽ馬借の居住地を破却しヽまた放火してまわったため、馬借は住む場を失い、所々に隠れ住んで狼籍を働き、ついには祗園社や北野社に閉籠して強訴に及ばんとしたという

 居住地を失った彼ら馬借が、その再報復として京都を襲うとの風聞が流れ、祗園社を細川氏が、北野社を侍所の赤松氏が警固するというものものしさであり、さらには内裏や仙洞(上皇の御所)に馬借が乱入するとの風聞が飛びかうにおよんで、「洛中隈雑」という事態にまで陥っている。


  これらの風聞は不幸にして現実となったo坂本の馬借数百人は京都を襲い、「貴賤を嫌わず、上下を論せず」放火してまわったのであるなかでも北野社水光禅能法印坊はまったく破却されてし
 まい、幕府は急逡、赤松・一色両氏に、北野社警固を命じている『同前』。
  この事件は馬借が内侍車に対して狼籍を働いたことに端を発したものであったが、実は事件の背景には、馬借の死命を制するばかりの重大な問題が秘められていたのである。山門使節が管領邸に呼ばれて語るには、 この事件の発端は次のようなものであった『同前』。
  件の馬借起源)は酒屋所々に於いて麹の業を致すの処ヽ去年以来ヽ北野公文所禅能法印申し請く
   るに依り麹業に於いては北野神領と雖どもヽ西京其の沙汰致すべきの由仰せ出され、所々麹業を止め られ了んぬ。これに依て江州八木(米)売買ヽ其の七万なきに依てヽ件の馬借訴訟致すと雖ども順に達せざるの間、狼籍に至る。
 つまりヽ北野社神人の北野麹座がヽ洛中における麹専売権を握ったがために江州米の値が暴落し、米売買に 携わっていた坂本馬借がそれに対して訴訟したにもかかわらずヽ無視し続けられたために、ついに実力行使に立ち上がったものであった。
  ここに述べられている北野社麹専売権とはヽ応永二十六年(一四一九)に幕府が北野社に付与したものであるー北野社では麹を売りさばくためであろうヽ応永三十二年十一月と同三十三年二月の二回にわたって京都の酒屋三四七軒の名簿を作成しヽその専売権の確立につとめていた。このときの坂本の馬借蜂起は、これら 北野社の麹販売独占の強化によってヽ近江の米価が暴落したことに対する抗議行動であった。この事件から米売買に深くかかわっていた坂本馬借の姿をみることができよう。
 馬借がこのように米商人としての性格をもつ以上ヽ米の輸送に大きなかかわりをもつ街道に対してヽ彼らはけっして無関心ではありえない。そしてここから引き起こされてくるのがヽ馬借による関所設置反対のための蜂起であった。
 嘉吉二年(一四四二)四月のことである。堅田地下人と馬借が一体となって北国口率分の設置に対して異議を唱えた。公家の万里小路時房の日記『建内記』には「或は仮事(うそ事)と号し、或は盗人と称しヽ動もすれば異議に及ぶ。狼籍の至り哉」とあるから、両者はこの北国口率分になんらかの武力的行動をとったものと思われる。
 率分とは率分関ともいわれ、朝廷によって街道に設けられた関所をいうが、商人がこの関所を通る際、商品に税をかけてその何分の一かを徴収するため、こうした名が付けられていたものであるo率分関からの収入は当時諸官衙の重要な財源となっていたがヽそれはさておきここにいう北国口率分とはヽ西近江路に設けられたもので、禁裏(皇居)の御厨子所の領知するものであった。これに対して堅田地下人と馬借が異議を唱え、狼籍を働いたのである。
 この事件で注目されるのは、堅田の地下人が馬借と与同して事を起こしていることであるoなぜ堅田地下人が北国口率分に異議を唱えたのかヽその事情は史料上からは察することができないがヽ堅田衆は日本海に面する国々に進出して商行為を行なっており(第二章第四節参昭甘それが率分関が設けられたことによってヽ大いに阻害されたであろうことはヽ充分に推測しうる。



  一方、馬借側からいえば、彼らはその目的を同じくするものであれば、単独で蜂起することなく、与同することによって力を倍加しようとしたのであろう。
 馬借の関所設置反対運動としては、文明三年(一四七一)十一月にも、坂本馬借が新関に反対し立ち上がっている この事件は山門使節の行泉坊・西勝坊・護正院の三人が供米・供料の徴収を名目としてヽ御料所と称して真野に新関を立てたために起こったもので、山門使節らは「人別・駄別以下、過分にこれを取り侯」とあるから、荷物のみではなく、人間に対しても関料を徴収したために、坂本馬借らはこのような抗議行動を起こしたものと考えられる『同前』。 幕府は馬借らの愁訴をうけてであろう、まもなくこの真野新関を停止する御教書を発している。一時は青蓮院門主の尊応まで出京し、幕府と対決する姿勢さえみせた山門側であったが、御教書の発行によって山門側も折れ、事件は拡大せずに終わった。
 このように馬借の蜂起の目的をみると、その運送業者としての性格から自然のことではあるが、関所の設置に反対するものが多いのがその特徴といえる。またそれとともに見落としてはならないのは、応永三十三年(一四二六)の蜂起のように、彼らの米商人としての性格から蜂起することもあったことであろう。

    山門と馬借


 山門の先に康暦元年(一三七九)の坂本馬借らによる祗園社乱入事件は、山門の内輪もめともいうべき 馬借支配 事件であったことをみた・坂本の馬借らは山門の強固な支配下にあったのである・ 永享五年(一回二三)七月、突如として京都に坂本馬借が乱入するとの風聞が流れ、幕府は諸大名に命じて鴨川に陣を張り、警備を固めた。風聞は二十四日になって事実となり、洛中に侵入しようとした坂本馬借と山名勢が鴨川において合戦し、双方に負傷者を出したものの、山名勢はなんとか馬借の侵入をくい止めてい 
 ついで閏七月三日に馬借がふたたび京都郊外の北白川に押しかけ、家々に放火して逃げるという事件が起こっている『同前』・そして同月十四日、今度は一転して舞台は近江に移される。
 この日、上洛しようと草津辺にさしかかった信濃守護小笠原政康が、馬借・土民ら数千人の襲撃をうけたのである・数千人という数字はともかくとして、小笠原政康は奮戦し、馬借らI〇余人を討ち取ったがついに通ること叶わず、守山にまで引き返したという。
 この三つの事件は、まったく突発的に引き起こされ、それぞれの事件は、一見、結びつきのないようにみえる。しかしこれらの背景に、この年に起こった山門と幕府の対立をおけば、この三つの馬借蜂起は、またちがった様相を呈してくるのである。
 この年七月、山門側は光聚院猷秀・赤松満政・飯尾為種らの不正をあげ、その処分を幕府に迫り、これが発端となって幕府による山門弾圧、いわゆる永享の山門騒乱の幕が切っておとされる。幕府は一時は彼らの罪を認め処分したものの、山門が訴訟に同意しなかった園城寺を焼き打ちしたことから態度を硬化し、ついに軍隊の派遣となったひ戦いは幕府の勝利に終わるがヽ山門と幕府の緊張関係は続きヽ最終的結着は永享七年(一四三五)幕府が山門使節をおびき出しヽ殺害するまでもちこされている(第三章第一節参照)。
 永享の山門騒乱はヽこの時期における最も緊迫した政治上の事件であった。京都にたびたび乱入しようとした坂本馬借の蜂起はヽこの事件の推移と符合するしヽまた草津辺りで小笠原氏に討ち取られた馬借は、前述した山田・矢橋・下笠の者であったろうことは疑いなくヽそのなかに山法師が一人含まれており、そのことから山法師=山門と馬借との強い絆が浮かび上がってヽ小笠原襲撃はなによりも山門の主導によって行なわれたことを思わせるoそしてこのことによってヽ馬借のこの事件における位置が鮮明に写し出されてくるのである。
 つまり馬借による京都乱入はヽ山門による幕府に対する陽動作戦であり、また小笠原氏襲撃も、幕府側に加担するであろう小笠原氏を草津でくい止めヽその上洛を阻止しようとしたのであって、その先兵となったのが、山門支配下の馬借であった。
 ちなみにヽこの永享の山門騒乱に際してヽ坂本馬借は最後まで山門の先兵として幕府軍と戦い、永享六年十一月の幕府軍による山門総攻撃にはヽ「馬借・下僧等同心しヽ下坂口に降り、野伏合戦」を行なっているしかし幕府軍の攻撃はすさまじくヽこのとき「坂本中の在家(民家)等」はことごとく焼き払われヽ「馬借数多討ち取」られ、「坂本中滅亡」という事態を迎えるのであ、。 さて山門の先兵としての馬借の姿はヽ嘉吉元年(一四四一)九月の、嘉吉の徳政一揆に際してより鮮明にみられた・この徳政一揆には「土民数万」が参加しヽ京都はこの一揆勢によって市街を包囲されるという憂きめに陥るがヽ「綜江州より起る」といわれるようにヽ このときの土一揆のそもそもの発源は近江にあった。そして一揆の先頭をきったのはほかならぬ近江の馬借だったのである。馬借の狙いは徳政令発布要求とはかかわりなく、ある一点に絞られていた。公家中原収雛の日記『師郷記』嘉吉元年九月十三目条はヽそれについて次のように述べている。
  山門衆徒等、河原(鴨川の東)辺りに下洛す。祇園社より犬神人/師子・田楽を先と為し、馬借等六角宿所に発向す。但、六角今暁、江州に没落す。恐て相防ぐに及ばずヽ彼の宿所並びに近辺少々放火し了んぬ。此の次で、馬借所々に打ち入り、資財を奪い取り、人を刃傷す。希代の濫行也。かぬ除殿(足利義教) 御事の後、江州山門領、守護押妨の間、山門欝憤の余り、此くの如く沙汰致す。
 嘉吉の一揆に、近江の馬借は山門の先兵として真っ先に近江守護六角瀧政の京都宿所を攻めヽ放火し資財を奪い取ると、いずこともなくその姿を消したというのであるo徳政一揆側は前日の十二日に「前言ぶ此の沙汰先例」という代替わり(将軍の交替をいう)徳政を幕府に認めさせておりヽこの段階でその目的を達していたから、翌日になっての馬借による六角宿所焼き打ちは、一揆とはいささか異なった行動と感じざるをえない。
 『師郷記』によれば、馬借のこの行動はヽ六角氏が近江の山門領を押妨しヽそれがため「山門欝憤の余り」ヽ山門の意向をうけた馬借が六角氏を攻めたものであったというo馬借は徳政一揆とはまったく別の目的をもって行動していたのである。

 六角氏は近江に逃れる途中、「瀬多(田)橋」で山徒の攻撃をうけて一戦を交え、瀬田の在家に火をかけて逃走している。この馬借と山徒の連携こそヽ何よりも馬借が山門の先兵として行動していたこ写69 西近江路 富崎付近より西近江路を北に見る。西近江路は,大津札の辻で東海道から分かれ北に走る街道
で,湖岸沿いに今津を経て,海津から敦賀にまで至る。
下阪本・富崎・比叡辻の各集落は,この西近江路に沿って開けており,往時は坂本の馬借が隊商を組んで往来していた。

 いま一つ例を示せば、嘉吉三年(一四四三)二月、富樫氏一族の内紛があったとき、幕府は軍勢を京都に集めて富樫氏への発向準備を整えていたが、このとき、山門は幕府に味方し「(山門)使節等、馬借等を召し具して河原に在り」といわれたからヽここでも馬借はヽ完全な武力集団として山門に率いられているのである。
 以上のように、山門と坂本を中心とする馬借はきわめて密接な関係にあり、それ故にこそ当時の知識人は、彼ら馬借に対して、たとえば「坂本馬借」といった表現とともに、時には「山門之馬借」といった表現を用いたのであった


江州東坂本比叡辻馬借年預職、静住房(坊)憲舜よリ買得し当知行也。売券の旨に任せ安堵の奉書を成し下
さるべきの由申す。
この文書によれば、比叡辻の馬借の様々な雑務を行なう年預職を山徒が握っており、年預職は山徒間におい
て売買の対象にすらなっていたのである。そして年預職が山徒に握られているということは、さらに上級の
支配権が山門にあったことを物語っている。
 応仁二年(一四六八)の堅田大責の際、山門は「成敗ニョテ関上乗ヲ途津・三浜・馬借等、陰憐堂ニタテヲ
キタリ」と回心、堅田が所持していた「関上乗」をとりあげ、その一部を馬借に与えているが、これも馬借
が山門の支配下にあったからにほかならない。なぜなら、山門がこの湖上特権をまったく支配外の組織に、
一時的にせよ与えることは、ほとんど考えられないからである。
 しかし馬借と山門の関係は、以上のように馬借がつねに山門の意をうけて、その先兵として武力蜂起する
ばかりではなかった。馬借の祇園社へのたびたびの乱入は、時には馬借のもつ利害関係によって、山門のあ
る特定の人物・機関に向けての抗議行動として、全山門を相手に立ち上がることもみられたのである。その
意味で、坂本・大津の馬借は、山門の意向のみをうけて行動する山門の傀儡ではけっしてなかった。次にそ
のことに眼を転じてみよう。

土 一 揆 「日本開白(闘)以来、土民の蜂起是れ初め也」といわれた正長元年(一四二八)の土一揆は、奈良の実 態 ・京都を席巻するほどの大規模なものであった。京都近郊では、九月に「当所醍醐二地下
人等ヽ徳政と号して蜂起しヽ方々の借書等ヽ悉く責めだしてこれを焼く」といわれるようにヽ醍醐辺りから土民の蜂起があり、彼らは徳政令を要求したが、醍醐の蜂起はむしろ近江での徳政要求に触発されたものらしく、『満済准后日記』は「凡そ徳政の事、江州より沙汰し出す也。八月以来の事か。以ての外の次第也」と述べて、近江においてはすでに八月から、そうした動きのあったことを伝えている。   ゛
 また先にみたようにヽ嘉吉元年(一四四二)の土一揆も「綜江州より起る」といわれヽやはり近江が蜂起の起点となっており、近江での土一揆はすぐさま京都近郊に波及する要素をもっていた。
 嘉吉の土一揆の場合には、「守護佐々木の六角張行せしむ」といわれるように『同前』、近江の土民が蜂起したのは、六角氏と山門の所領争いが激化しているときであり、むしろ六角氏の山門に対する陽動作戦としてとられた可能性が強い。そしてこの結果として、六角氏の京都宿所が山門支配下の馬借によって放火されたととは前述した。さらに時代は前後するが、永享六年(一四三四)九月の際にも「江州事、土一揆・山上小法師原等ヽ既に蜂起せしむ」といわれて 土一揆と山門支配下の小法師原が連合して蜂起していたことを匂わせている。
 このように土民の一揆=土一揆とはいっても、それらの一揆には、まったく純粋な土民だけの一揆とはいいえない側面を多々もっており、少なくとも近江の土一揆は、六角氏と山門という相拮抗する勢力の下で、政治的色彩を色濃くもって蜂起することが多くあったようだ。
 さて康正二年(一四五六)九月、坂本の土一揆が徳政令の発布を要求して八王子社頭に閉籠することがあった。これに対し山門使節や山徒はこれを退治せんものと、土一揆を取り囲み、社頭に放火したが、『師郷記』
はこの事件を「坂本土一揆」と記しており、この一揆の主体が馬借にあったらしいことがわかる。
 また明応二年(一四九三)十一月十五日、土一揆が徳政令の発布を要求して日吉社に籠もり、山門側がまたもや武力でもって弾圧に乗り出し、大宮社以下が灰燼に帰したことがあった。このときには、これら坂本の動きに触発された志賀郡の土民が十日日になって一揆して蜂起し、山門は志賀をもことごとく焼き払い、あるいは穴太にも発向して、これまた焼き払っている。この一連の土一揆は、「志賀郡の土民、土一揆と称し」
といわれるように四回、一見文字どおりの土民の一揆であったように思われる。しかし奈良の大乗院の門跡尋尊は、その日記『大乗院寺社雑事記』の十八日条で、「去る十五日、馬借共閉籠の間、十禅師・二宮・三宮、悉く以て山王焼失し了んぬ」と記し、やはり馬借の所業と伝えているのである。

写70 真盛上人往生伝記 真盛の弟子真生か師の死後ま
もなく著わした『真盛上人往生伝記』には,明応2年
(1493)11月の坂本における土一揆の有様が詳しく描かれ
ている。それによれば,このとき,日吉社に籠もった土一
揆勢400余人はすべて討死し,比叡山から土一揆退治の
   馬借の蜂起と土一揆との混同、これははた
  して何を意味するのであろうか。この節の冒
頭において述べたように、多くの馬借は運輸
ため出向いた山徒勢も30余人が死亡したとし
業にのみ専従するのではなく、閑時には農耕
にも携わるという側面をもっており、当時の
知識人の日記に、あるいは土一揆と記され、
あるいは馬借と記されたのは、馬借のこうし
た性格を如実に反映したものと考えられる。
つまり馬借の性格からして、これらの一連の
一揆は、土一揆とされても、あるいは馬借の
蜂起と記されても、いずれも正鵠を得たもの
であったにちがいない。



 明応二年(一四九三)のこの土一揆の結末は、悲惨であった。日吉社に龍った土一揆は四〇〇余人、その大部分は山門の攻撃により焼死し、あるいは捕えられたが、彼らの死骸は山のごとくであったという。西教寺の衆僧はこれを憐れみ、その死骸を一所に集めて土葬し、念仏回向した。これが山門の怒りにふれ、西教寺を破却しヽ真盛上人の追放を決定したと伝える
 ところでヽ大津近辺の土一揆は、徳政を要求する場合、ほとんど八王子社・日吉社に閉籠している。土一揆の徳政令発布要求は、嘉吉元年(一四四一)の徳政一揆頃から頻繁となり、万里小路時房をして、  今、武家の徳政の沙汰は、締土民の雅意より起こり、只無理に質物を破り借書を破る者。其の儀許りを以て徳政と号し、更に徳政の実に背く。
と 徳政の語義にまで及ぶ述懐をさせるほどのものになっていたが、坂本を中心とするこれらの徳政一揆は、はたしてどこに徳政令の発布を要求したのであろうか。確たる史料はないが彼らが山門の支配下にある日吉社に籠もっていることからすれば、山門延暦寺に対してであったろう。
 しかし金融=利貸においても大きな勢力をもっていた山門としては、債権を放棄する徳政令発布の要求は認めがたくヽ事実ヽ「吉田弥次郎二借し与う廿貫文 事ヽ坂本徳政と号し無沙汰」との山徒大輔隆兼の申状が出される事態ともなればヽみずからの経済基盤を揺るがすような農民たちの要求は、容認しがたかったにちがいない。それ故にこそ、徳政を要求し日吉社などに閉籠する土一揆に対しては、武力的弾圧でもって臨んだのであろう。
 文明十七年(一四八五)八月、室町幕府から山門使節・園城寺・石山寺に対して、徳政一揆取り締まりを命ずる文書が出された
 これはとりもなおさず、この年前後の、近江での徳政一揆多発を物語るものにほかなるまいが、山門支配下にあって、かつてその先兵を勤めた馬借は、応仁の乱前後から山門の支配力低下の間隙をぬって、今度は山門勢力と真正面から対決する様相を示しはしめた。これもいま一つの馬借の姿だったのである。
 

 中世の坂本は、戸数で2〜3千軒、人口で万をこえていたとみて、ほぼあやまりなかろう。これは当時の畿内では、京都・奈良につぐ戸数・人口であり、中世の坂本の繁栄ぶりが戸数・人口の面からも裏づけられる。
 いうまでもなくこの坂本の繁栄は、延暦寺の隆盛によって支えられていたといっても過言ではない。しかし坂本は時として悲劇をも延暦寺とともにしなければならなかった。永享5年(1433)から同7年にかけておこった永享の山門騒乱の時、延暦寺方にあって、まっさきに幕府軍の攻撃をうけ、兵火にかかったのは坂本の町であった。
一面焼け野原となり、「坂本中滅亡」とまでいわれるほどの大打撃をうけたのであった(『看聞御記』)。 延暦寺と幕府との関係が好転するにともない、坂本の町はやがて復興した。坂本の復活ぶりを示すものに、狂言「磁石」に描かれた坂本の市場風景がある。 
                      
爰元は皆唐物店ぢゃよ。金欄・緞子(どんす)・綴錦(どんきん)・錦、綾 織物・染物、さてもさても夥(おびただ)しい売物ぢゃ。また是に は馬道具があるよ。鞍(あぶみ)・鎧(きつつけ)・切付、肌付(はだづずけ)・刀皮・四方(しぽう) で手・轡(くつわ)・手綱(たづな)・押掛(おしかけ)・鰍(しりがい)。また爰元は数寄道具、風炉釜・茶碗、茶杓、茶晃・杓(ひさく)、茶入・水差、水こぼし・ 蓋置、瓢(ふくべ)・花入、火箸・灰・焙烙(ほうろく)、いづれも一通り飾ったよ。いや是には小間道具、鏡・紅・白粉、櫛・針・毛抜・鋏、巾着(きんちやく)・ただき・印籠・帯、起上り小法師、 たんほほ、振鼓、さまざまの物がある…………しかし、この坂本の前途は決して容易ではなかった。中世の坂本の終焉は、永享の山門騒乱にまさるともおとらない戦火によっていろどられることとなったからである。
山門焼き討ちと坂本築城
 元亀元年(1570う9月の信長軍と浅井・朝倉軍の坑争は、やがて両者の間に和議が整うが、信長は延暦寺を強く憎むこととなる。元亀元年の合戦からちょうど1年を経た元亀2年9月、山門攻めを強行する。信長は先年の合戦後まもなく、坂本の南、宇佐山城に明智光秀を入れて、雄琴・仰木の士豪らを懐柔、山門攻めの下準備を着々と進めていた(『和田穎一家文書』)。周到な計画の下に9月12日暁、山門焼き討ちは決行された。下坂本は先の合戦で焼土と化していたが、いまだ無疵であった上坂本に信長軍は攻めかかった。日吉社も兵火にかかり、坂本は一面の焼野原となった。信長軍は比叡山一山をくまなく掃討し、延暦寺ぱここに滅亡した。古代・中世と延暦寺の隆盛とともに繁栄を極めた坂本の町は、信長によってここに滅びた。

 信長は延暦寺滅亡後、それまで宇佐山城にあった明智光秀に命じて、ここ坂本の地に城を築かせた。延暦寺は滅びても、湘南地域における坂本の政治的・経済的な要所としての位置になんら変りはなく、そればかりか軍事的には、これまでにもまして重要な地となりつつあった。
 当時、信長は、近江国内はもとより、遠くは武田・毛利・本願寺といった敵対勢力と対決する立場にあった。
特に近江国内では、江北の浅井がいまだ信長の隙をつき反攻せんものとねらっており、このような不安定な軍事情況のなかで、坂本のもつ軍事的拠点としての意味は大きなものがあった。
 この城はひじょうに立派なものであったとみえ、ルイス・フロイスはその著『日本史』のなかで、坂本城について「明智は都から4里ほど離れ、比叡山に近く、近江国の25里もあるかの大潮(琵琶湖)のほとりにある坂本とよばれる地に邸宅と城塞を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。(第56章)と記している。




時は戦国時代、足利幕府の衰退とともに全国の守護大名の権威も弱まり、それにとって変ろうとする豪族たちが戦国大名となり群雄割拠した。こうした戦乱の世を平定しようと越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、そして尾張の織田信長が天下人を目指す。なかでも信長の行動は他に抜きん出ていた。周辺の中小大名を配下に従え、松永弾正により弑いされた将軍足利義輝に代わって将軍職に付いた義昭を上洛させ、畿内を平定するとともに、将軍義昭に圧力を加え天下統一を進める。しかしそんな信長を心良く思わない領主たちもいた。越前の朝倉義景もそうした大名だった。義景の敵意を見た信長は、北近江の浅井長政と姻戚関係を結び越前を攻めた。だが朝倉に恩義のあった浅井は朝倉に与し信長の激怒するところとなる。こうして信長の敵となった浅井は朝倉軍と同盟を結び信長と戦うこととなった。浅井・朝倉軍は近江一向一揆衆、叡山の僧兵らとも組み、ことごとく反抗する。覇権を確立しようとする信長にとって、浅井・朝倉軍はまさに目の上のたん瘤。しかも敵はゲリラ的に信長軍を襲い叡山に逃げ込む。信長の美意識にとって許されざる攻撃を仕掛けるのだった。

ついに業を煮やした信長は、浅井・朝倉軍を姉川で撃破し、浅井・朝倉軍に協力した比叡山全山の焼き打ちを決意する。元亀二年(1571)、浅井軍を牽制した信長は、一向一揆の拠点である金森城を攻撃し落城させると石山に陣を張る。誰もがそのまま京に行くと思った。しかし信長は急転し延暦寺の門前町坂本を襲う。その勢いで一挙に比叡山を焼き払ったのだった。


坂本(さかもと) 近江国(滋賀県)

比叡山の門前町。

近江国志賀郡志賀荘(大津市坂本本町・下阪本町)。比叡山の東麓で琵琶湖に臨み、延暦寺の権勢の拡大とともに、坂本七ヶ関などにみられるように、山門の経済活動の拠点として繁栄した。数々の兵乱に山門自らが係わり、坂本は戦場となることも多かった。

坂本は延暦寺の門前町として栄え、比叡山の守護神である山王総本宮日吉大社をはじめ、天海大僧正造営になる日吉東照宮、天台真盛宗総本山西教寺、歴代天台座主の住居であった滋賀院門跡、江戸期の名庭園をもつ数多くの延暦寺里坊など豊富な史跡と自然が息づく静かなたたずまいの町として知られる。今も「穴太衆積み」と呼ばれる石垣が町の随所に残っている。また、信長が近江平定の功として明智光秀に坂本一帯を与え、光秀が坂本城を築いた場所でもある



坂本馬借(衆)
 湖西坂本を中心とした中世の運送業者のことである。駄馬を使用して荷物を運搬する馬借の集団は、貨物の輻輳する津湊に存在していて坂本・大津・淀・山崎は有名であった。 特に馬借一揆で名を売った坂本馬借は、よく知られている。 坂本は山門を控え、湖上の要津として、北国および近江一体の貨物を京都に運ぶため、賑わい、当時、わが国指折りの都会であったという。この都会に集団を作った坂本馬借は山門衆徒に加担して、戦いに加わったり、悪相と行動をともにしたりするようになった。 応永年間のこと、 洛西北野の僧が麹の専売権を得てから坂本経由の米の値段が下落する。このとき徒党を組んで京中に乱入した。 正長元年9月、 馬借大挙して徳政を求めて、富豪の土倉を破壊、ついに騒乱が諸国に伝播。 こうして、 馬借一揆は坂本を根拠地として草津辺にも広がり、京都におよぶのである。 永享5年には、坂本馬借は山門の徒党として活躍している。 この年の7月、潜入した多くの場借は大原辻で山名勢と戦い、 閏7月には、またきた白河に乱入して放火乱暴をしている。 この坂本場借に土匪が加わり草津では、信濃守護小笠原政康入洛のとき、 草津に至る。そのころ、場借勢・土一機あわせて数千人に取り囲まれ、 終日相戦い、多くの死傷者をだし、守山にひきかえす。と満済日記はしるしている。 嘉吉の徳政一揆で場借は9月に山門と関係なく蜂起している。 まず坂本より発して大津・洛南・そして京都の四周を包囲して中京に及ぶ。 各庄屋はこの暴挙を避けようと妥協の徳政をだして安全を図っている。 馬借の乱行は、応仁のころまで続く。





  戸津説法とは、比叡山を仰ぐ下阪本の琵琶湖畔、明智光秀ゆかりの板本城跡の一角にある東南寺で、毎年八月二十一日から二十五目まで行な われる法華経についての説法のことを指し、説法が東南寺で行なわれるところから「東南寺説法」とも呼ばれています。
  戸津というのは東南寺があるあたりの古い地名で、琵琶湖畔のこの辺 は三つの船着場「津」があり、北から今津、戸津、志津の三津の中の一 つです。また比叡山から琵琶湖に注ぐ三本の川、大宮川、権現川、四ッ谷川の三つの流れを総称し三津川といいますが、かつてこの地域を領有していたのが伝教大師のご先祖で、そのご一族が三津の首(長)という 姓をもらつていたといわれ、伝教大師の父は、三津首百枝(みつのおび とももえ)といいました。
 この戸津の地に伝教大師は、ご両親への報恩、追善供養のため一宇を 建立しました。それは比叡山から東南の方角にあたるところから東南寺 といわれ、やがて大師は「江西の民衆に仏種を植えしめんがため、山僧 の学道を増進せんがため」とここでの法華経の説法が始まりました。往 時には三十日間の説法が行なわれましたが、明治期より現在と同様の五日間の行事になりました。
 戸津説法とは宗祖伝教大師のお志しをつぎ、大師に代わって説法師と してお勤めすることであり、毎年一人、お大師さまのご命日に天台座主猊下から直接指名されるのがしきたりとなっています。千二百年の永き にわたって連綿として営なまれてきた戸津説法は、天台宗や比叡山延暦寺にとり、尊き、そして大事な年中行事の一つとなっています。