大津西ロータリークラブ エリアの歴史
琵琶湖湖西地区
近江を制するものは天下を制するのとおり、ここに日本の歴史が集約されている日本の歴史がここから始まるといってもいいぐらい大津は大変なところです。この大津に住む方々は誇りをもたねばいかんところです
「大津市史編集委員 座談会より」
堅田の歴史散策より

667年大津京】(おおつのみやこ)遷都 天智天皇 の帝都
672年壬申の乱】(じんしんのらん) 大友皇子(天智天皇 の長子)が大海人皇子(天武天皇)に敗れ縊死 大津京終焉
710年 平城遷都
(奈良時代 710〜784年
大和朝廷は天皇を中心とする律令体制・公地公民制を整えつつ、国家の力は北は東北地方から九州南端にまで及んだ。
・財政拡大目的の開墾を推進するため、公地公民制と矛盾する墾田永年私財法(743年)を発布→
初期荘園の誕生

 大津宮は遷都後わずか 五年で終焉した。大津宮終焉とともに 敗軍に属した志賀郡の豪族はいずこかへ敗走し、民衆は朝廷の支配のもとでの歴史を重ねた。
 朝廷は743年に開墾の推進策として墾田永年私財法を発布し開墾地の永年私有を認めた。この法令により資本を持つ中央貴族・大寺社・地方の富豪は活発に開墾をはじめた。
 志賀郡における有力勢力は日吉大社であった。日吉大社は、その社歴によれば、天智天皇が大津京の遷都(667年)に当たり大和国三輪山に坐す、大己貴神(大物主神)を勧請し、国家鎮護の神として祀られたという。日吉大社は大津京終焉後も衰えることなく存在し続けたので、志賀郡は日吉大社との深い係わりで、初期荘園が出現したと思われる。 日吉大社は、比叡山延暦寺の護法神として、神仏習合を進め山王神道の拠点となった。
 最澄 が創建した一乗止観院(788年)は、823年
嵯峨天皇から延暦寺の寺号を賜った。 初期の延暦寺は831年に 朝廷から「近江国分寺の供料を年分僧24名の供養にあてたという規模であったが、中世には、近江・畿内・北陸・山陰・東海・山陽・四国・九州の全域にわたる、巨大な荘園経済力を保有する教団とな る。

時代のポイント
平安遷都
 794年 〜約400年(1185年)
平安前期
開墾により土地を所有した有力農民層は国司と一定の契約関係を構築し、免田(租税免除の田地)を認めてもらうようになった。→免田寄人型荘園

 今に在る志賀郡の氏神的小社の由緒によれば、多くが九世紀に創建と記されている。大津市坂本周辺の多くが「日吉大社社外百八社のひとつ」と記されており、日吉大社の支配下であったようだ。

 堅田、真野にも九世紀に多くの神社が創建されているが、神社は伊豆・神田系であり、日吉大社の勢力圏外であったようだ。


 志賀郡における九世紀の神社創建は十一世紀に大発展する寄進地系荘園時代への扉だったように思われる。
 堅田には995年に比叡山の恵心僧都源信が満月寺(浮御堂)を建立しているが、比叡山延暦寺の地元近江での荘園所有の象徴のようにもうかがえる。

859年〜 堅田に神社が相次ぎ創建 
 伊豆神田神社創建859〜898年(貞観年間)
 鞍掛神社の社殿が建立882年(元慶6)
 伊豆神社(堅田大宮)創建892年
 神田神社創建949年
800年代 坂本周辺に日吉大社社外百八社の創建

時代のポイント
平安後期(11世紀ごろから)
有力農民層は開発領主として免田を開発した。開発領主は中央の有力者や有力寺社へ田地を寄進した。寄進を受けた荘園領主(領家)から、皇族や摂関家などのより有力な貴族へ寄進 され、重層的な所有関係を伴う荘園が成立→寄進地系荘園

 1090年に堅田に加茂御祖社(下鴨神社)の御厨が置かれたことも、有力寺社へ租税免除を目的として、田地を寄進する動きの活発化 と連動したことのようだ。

 平安後期に志賀郡の諸村が比叡山延暦寺の荘園に編入され、堅田も同様に鎌倉〜室町時代に、惣村としての発展を遂げる初期の歩みを始めた。

 寄進地系荘園というのは国に収める租税を有力者に寄進し、有力者の庇護を受けるというものだ。本来、国領を守るべき立場の時の政府の高官までもが、寄進を受けてしまったことにより寄進地系荘園は大発展をした。しかも、寄進を受けた荘園領主 (領家)から、皇族や摂関家などのより有力な貴族へ寄進され、重層的な所有関係に発展したのである。
 武家政権の誕生以前の日本は、主に皇族や公家により統治されていたが、寄進地系荘園の拡大過程で、荘園と公領の間に武力紛争が多発し、荘園の現地管理者である荘官、公領の現地管理者には、武士が任命されるようになった。こうした武士は地方領主化して地域の実効支配者としての地位を築いていった。平安時代末期、平清盛が武家としては初めての太政大臣に任じられた。

時代のポイント
鎌倉時代
1185〜1333年
幕府御家人が地頭に任命され、荘園・公領への支配を強めていった。
農業生産の飛躍的増加は上層農民の経済力と領主・地頭への権利意識を高めた。

1263年(弘長3) 堅田浦検断職をめぐり延暦寺内紛西塔と横川の間に争いが起る(資料館年表)
1292年(正応5) 梅宮神社が伏見天皇により創建される(資料館年表)

 室町幕府成立前、足利尊氏と覇を争い敗れた新田義貞は越前に向かう途中、堅田に寄り、妻女(勾省内侍)を堅田にに預けて、旅立ったことになっている。このことは、その時期の堅田が惣村としての形態が整い、 経済的にも大きな力を蓄えていたものと推測させる。

 お寺の創建
 堅田には、恵心僧都源信が995年に比叡山の満月寺(浮御堂)を建立して以後、妙盛寺、光徳寺、本福寺などが次々に建立された。

堅田の寺院

788年(延暦7) (参考)比叡山延暦寺 最澄が一乗止観院として創建
995〜999年 満月寺(浮御堂) 比叡山の僧恵心僧都がを建立する
1010年(寛弘7) 妙盛寺 僧(恵心僧都)源信によりが建立される
1331年(元弘元) 福寿禅院 僧了義によりが建立される
1361年(康安元) 光徳寺 僧覚忍開祖
1334〜1392年 本福寺 僧善導の創建と伝えられる浄土真宗本願寺派
1351年(観応2) 泉福寺 勾当内待の菩提寺建立(寺の寺歴では真宗に改宗と記載)
1394〜1428年 祥瑞寺 華叟宗曇禅師により聖瑞庵が開かれる
1500年(明応9) 円成寺 僧守信開基 1673〜1681(延宝年間)
1560年(永禄3) 海蔵寺 僧守真によりが開かれる 1624-1644年(寛永年間)
  寿寧寺
  衣川寺

時代のポイント
室町時代
1336〜1573年
守護に強大な権限が集中し、一国全体の領域的な支配を確立
荘園・公領に在住する民衆は、惣村(村落)を形成、自立指向
守護の権限強化と惣村・郷村の自立→荘園は次第に解体

 鎌倉時代末期から室町時代初期までの間は、全国的に戦乱が相次ぎ、荘園の所有関係も非常に流動化した。民衆が自己防衛のため村落単位で団結する傾向が強まっていった。
 室町幕府は、戦乱を抑えることを目的として、国単位におかれる守護の権限を強化した。強大な権限が集中した守護は荘園領主から年貢徴収を請け負う守護請を実施し、守護による荘園支配が強まった。守護は一国全体の領域的な支配を確立した。室町時代の守護を守護大名という。

 鎌倉時代、志賀郡の諸村は比叡山延暦寺の荘園として、比叡山勢力の庇護を受けていた。そのためか志賀郡には鎌倉幕府の配置した地頭が支配した痕跡が少な い。また、室町時代の守護の影響も少なかったようだ。後の世のことであるが、守護の支配が弱かったので、戦国大名の台頭もなかったといえるのか。
 志賀郡は村落(惣村)ごとに有力寺社との関係を保ちつつ、一方で領主(寺社)への権利意識を高めていった。

 なかでも堅田は、高い自治能力を醸成し、かつての荘園領主(比叡山)とも一線を画して中世の自治都市を築き上げていった。

 堅田には鎌倉時代後期から室町時代にかけて、次々に寺院が創建されている。鎌倉時代以前、国家や貴族、研究のためのものだった仏教が、民衆のためのものとなっていった時代現象であったと考えられる。

 堅田寺院のひとつ、本福寺は浄土真宗の道場として1334年に創建された。本願寺の存如・蓮如父子は本福寺を三世法住のときに訪れ、法住は本願寺派へ帰依した。そして、本願寺蓮如の最初の主な布教は、この堅田衆を相手に為されたという。
 堅田の本願寺門徒は法住の本福寺を中心に、その親類縁者の十二道場によって組織されていた。門徒衆は商工業・運送業者などで構成される全人衆(新興勢力)で、その実態は堅田大宮「伊豆神社」の宮座を差配する殿原衆への対抗集団でもあった。

千葉乗隆先生(元龍谷大学学長)のお話によれば
こうした俗人(僧侶に対して世間一般の人)がリードする聞法活動を蓮如上人は大いに活用されました。蓮如上人の熱烈な支持者であった近江の法住(本福寺三世住職)・道西もそのような人でした。堅田の法住は次郎三郎と称し、紺屋を家業としていました。彼が研屋道円・麹屋太郎衛門と本願寺に帰依して以来、堅田の商工業・運送業者などで構成される全人衆を土台に本願寺門徒の組織化が進み、隣郷の衣川・真野・仰木・和邇・雄琴から大津あるいは海津あたりまで、さらには堅田の商業ルートに乗って奥州・北陸・山陰にまで進出しました。
(解説)
1.本福寺三世住職法住などは俗人であった。
2.蓮如上人は俗人がリードする聞法活動を大いに活用した。
3.堅田の商工業・運送業者などを本願寺門徒に組織した。
4.本願寺の教線は堅田隣郷の衣川・真野・仰木・和邇・雄琴から大津あるいは海津あたりまで、さらには堅田の商業ルートに乗って奥州・北陸・山陰にまで拡大した。

 山門衆徒は寛正六年(1465)の本願寺を破壊した後も、蓮如を追廻し、金森惣道場も攻めている。しかし、山門衆徒は蓮如が金森惣道場より山門に近い堅田の本福寺に移ったとき、本福寺を攻めることができなかった。これは、堅田が仏教の一宗派(本願寺)の拠点ではなく、仏教の一宗派を一構成要素とする中世自治都市(惣村)であったためだ。堅田惣村を支配していた殿原衆も、蓮如が堅田の本福寺に入ることを拒まなかった。

 しかし、蓮如が堅田の本福寺に移ったころ、比叡山と坂本衆は足利幕府と計らい、堅田惣村の既得権益の奪取をもくろんでいた。それが1468年(応仁2)の「堅田大責であった。

 応仁二年(1468)、室町幕府は「第八代将軍足利義政の邸宅「花の御所」の建築資材 の輸送を怠り、また幕府の蔵奉行籾井信久の輸送船に海賊をかけた」として、山門(延暦寺)に堅田攻撃を命じた。

 3月24日山門僧兵の総攻撃が始まった。堅田衆は殿原衆、全人衆団結して迎え撃ち、五日間よく持ちこたえたが、火をかけられて、29日、船で沖島に落ち延びた。
 堅田大責の結果、堅田衆はがもっていた湖上特権の上乗・関務は、山門支配下の坂本衆にとられた。その後、堅田衆は山門と坂本衆との争いに乗じて、坂本を攻め、上乗・関務の特権を奪回した。
 文明二年(1470)、堅田衆は山門に莫大な「礼銭・礼物」を贈り、堅田への環往を許された。環往の礼銭・礼物は、殿原衆、全人衆区別なく負担したが、全人衆の経済的実力を示すものであった。
 堅田大責以後、殿原衆と全人衆の身分的格差は是正された。また従来、殿原衆が独占していた堅田大宮(伊豆神社)の宮座にも、全人衆が参加することになった。
 さらに、関務の利益(関銭)を一部の特権的な利益とせず、堅田の全住民の利益と考え、各種租税を関務の利益(関銭)から支払うことになった。

 堅田全域を焼失し莫大な「礼銭・礼物」をもって解決した堅田大責は、結果的には、堅田惣村の誕生の陣痛であった。
 堅田は堅田大責のおよそ100年後の元亀二年(1571)年の織田信長の比叡山焼き討ちで焼失するが、この百年間が堅田惣村が最も反映した時期であったようだ。

 堅田は、元亀元年(1570)、自ら織田信長配下に入っり、本能寺の変1582年(天正10)後は豊臣秀吉の配下に組み込まれた。

 太閤検地により荘園は終焉した。荘園の終焉は惣村の終焉であった。惣村堅田も、その例に洩れず、繁栄の歴史は終焉した。
 

1467年(応仁元)蓮如が親鸞の御影を本福寺に移す → 蓮如上人と本福寺法住

1468年(応仁2)堅田大責 → 堅田大責
 
1570年(元亀元)織田信長軍堅田攻撃 → 織田信長と堅田 堅田衆は水軍として信長の支配下に組み込まれる

1571年(元亀2)延暦寺、織田信長の焼き打ちにあい全山焼失

1582年(天正10)本能寺の変

付録 惣村(そうそん) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 中世(鎌倉・室町時代)日本における百姓の自治的・地縁的結合による村落形態を指す用語。惣村が最盛期を迎えたのは室町時代中期(15世紀)ごろであり、応仁の乱などの戦乱に対応するため、自治能力が非常に高まったとされる。

 戦国時代に入ると、戦国大名による一円支配が強まり、惣村の自治権が次第に奪われていった。中には戦国大名の承認の下で制限された自治を維持する惣村もあった。最終的には、豊臣秀吉による兵農分離(刀狩)と土地所有確認(太閤検地)の結果、惣村という結合形態は消滅し、江戸時代に続く近世村落が形成していったとされるが、惣村の持っていた自治的性格は、近世村落へも幾分か継承された。

 惣村の内部は、平等意識と連帯意識により結合していた。惣村の結合は、村の神社での各種行事(年中行事や無尽講・頼母子講など)を取り仕切る宮座を中核としていた。惣村で問題や決定すべき事項が生じたときは、惣村の構成員が出席する寄合(よりあい)という会議を開いて決定を行っていった。

 惣村の結合を維持するため、寄合などで惣掟(そうおきて)という独自の規約を定め、惣掟に違反した場合は惣村自らが追放刑・財産没収・身体刑・死刑などを執行する自検断(じけんだん)が行われることもあった。追放刑や財産没収は、一定年限が経過した後に解除されることもあったが、窃盗や傷害に対する検断は非常に厳しく、死刑となることも少なくなかった。なお、中世の法慣習では、支配権を有する領主や地頭などが検断権を持つこととされていたが、支配される側の惣村が検断権を持っていた点に大きな特徴がある。

 荘園領主や地頭などへの年貢は、元々、領主・地頭側が徴収することとされていたが、惣村が成立した後は、惣村が一括して年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が広く行われるようになった。地下請の実施は、領主側が惣村を信頼していることを意味するだけでなく、年貢納入が履行されなければ惣村の責任が強く問われることも意味していた。地下請の伝統は、惣村が消滅し、近世村落が成立した江戸時代以降も承継されていった。

 惣村は、生産に必要な森・林・山を惣有財産とし、惣村民が利用できる入会地に設定した。惣村の精神的な中心である神社(鎮守)を維持するために神田を設定し、共同耕作することも広く見られた。また、農業用水の配分調整や水路・道路の普請(修築)、大川での渡し船の運営など、日常生活に必要な事柄も主体的に取り組んでいった。